ナイキパーク



しばらく前に、渋谷の宮下公園がナイキパークとして改装されるというニュースを聞いた。
少し調べてみると、単なるネーミングライツに留まらず、新たにスケボー場が整備されるなど、ナイキ流の公園のプロデュースと言っていい内容だ。


先週の快晴の日曜日、久しぶりに宮下公園を訪れてみたら、明治通りの人波に対して、人工地盤上の宮下公園は閑散としていた。
改装工事のためのフェンスによる封鎖はされておらず、ブルーシートのテントは今も立ち並んでいる。


反対運動もあるこのナイキパーク計画。
双方の意見のすれ違いは、特にこの宮下公園においては、公園という空間に対するイメージの違いに原因があるように思う。
王や官による欧米のパークの伝統(日本以上に管理は厳しく、有料ベンチなど利用者のコスト負担意識が高い)を後ろ盾にしたナイキパーク歓迎派と、
渋谷川埋立地で、かつ駐車場の人工地盤上という、都市(江戸から続く)における余白のような、そこから醸し出されるアジールのような空間であることを主張する反対派と。


いま裏原宿に備わっている、清潔なストリート感覚と雑然としたアジール感覚が、同時に宮下公園に流れこもうとしている。
その流れを制御しようとするか、それとも混じり合わせるのか。
空間を有効活用せよ、あるいはホームレスを追い出すな、スローガンの向こうに単純な公園像は見えない。


ヒントは意外に近くにあった。
目と鼻の先の美竹公園。
マイケル・ジョーダンが寄贈したというバスケットコートで興じる若者と、
遊具で遊ぶ親子連れと、その脇にたたずむブルーシートテント。
3者の距離は他では見られないほど、異様に近い。


微妙に混じり合わないグループがともにいる。
あの場所で、いま考えられる最もリアルな公園のイメージはそこにあるのだろう。
逆に言えば、そこから出発して、可能ならば歩み寄ること、不可能ならば共存する手立てを考えること。
新しい公園の設計図を引く者は、その責務を負っているように思う。